ここ最近、日本のドライバーも数多く海外で活躍をしていますね!
とても良いことだと思います。
というかこれが理想でした

思い起こせば約15年前のタイが初の海外ドリフトで、
その後、野村さんと阿部ちゃん・田中君と行った香港のイベントで、観客の拍手に号泣し海外に目覚め
D1が始まる前に、単独チームでまだドリフトがほとんど知られていないアメリカに乗り込み、
2度の門前払いをくらいながらも、日本人の根性で白人の経営者を落とし
(アメリカでやるならどうしても、アジア系の人づてでスポンサーを取りたくなかったので!)
でも、最初はひどい扱いされたな〜〜〜ギャラの交渉したときは、”イエロー”とまで言われました。。。
そして実力主義でドリフトを見せ、理解してもらい、
夢のトレーラーも作ってもらい、アメリカ中で走らせてもらいました!

そのときに会場に来ていたのが、”バンギットン”や”クリスフォースバーグ””サム”などの今のアメリカのスーパースター達でした

その会場に彼らはドリ車を持ち込み、空き時間で一緒に走ったり、ドリフトを教えたりしました

夢だった、ラスベガスでのドリフトデモランもやらせて頂きました

そしてD1がアメリカに上陸し、沢山のファンの前で優勝をさせてもらったり、アーウィンデールのバンクで対面ドリフトをさせてもらったりと、最高のアメリカでした

その後D1UKをきっかけに、KIYOSHIと出会い、オレンジのショーの確立と活動拠点をヨーロッパに移すことができました。
2006年から現在までヨーロッパ各地でドリフトショーをやり、スクールをやり、イベントオーガイナイズの指導もしてきて
今では自分たちが通った海外の国々では、ちゃんとしたドリフトイベントが独自に開催されるようになってきました

もう自分たちがドリフトのデモで走ることを見せなくても、十分に地元ドライバーで盛り上げられるようになってきたのです

各地のドリフトの完成、日本人ドライバーが海外に行って仕事ができるようになってきた。
自分の求めていたことがほぼコンプリートしてきたのかもしれません!!
結局ドリフトで大金持ちにはなれませんでしたが、世界中に友達が出来て、最高の財産を築けました

これ以上今までと同じ事をしていると、じゃまになってしまうし、足かせを作ってしまいかねません。
さあ!これからは、新しいパフォーマーとしての第2章に突入する時期かもしれません

11月のシルク・ド・モビを皮切りに、メーカー・行政・国といった所にドリフトを理解してもらい
次世代の若者がドリフトに興味を持ち、モータースポーツに興味を持ち、
そして、既存のD1ドライバーが、ドリフトで食える環境作りをしなければいけないのです。。。
ドリフトで食える環境作りとは、土屋圭市さんがD1発足当初から自分たちに言っていた言葉で、
世の中では俺との不仲説が広まっていますが、それは環境作りの中での途中経過での道の違いであって、
本来目指すところは一緒なのだと思います。
だからこそ、現在DOSSの採点方法にに異論を唱えているのも、土屋さんが作り上げた世界に誇るD1の走りを継承するためなんです。それは指導された走り方で自分たちは世界で活躍ができた事で立証されます

現在、多くのイベントが開催されていますが、今後一緒になる必要も無いと思います。
しかし、ドリフトイベント自分が食うのではなく、お家芸・国技”ドリフト”で食える環境作りをしてほしいと思います。
そうでないと、また俺が暴れちゃいますから

この話を聞いて、俺がやめると思った?

やめませんから、安心してください

ただドリフトの携わり方を変えます
posted by 熊久保信重 at 12:24|
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日記
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